2025.07.30 Wednesday

石破氏やめろというまえに考えよう

 一つの党が政治のかじ取りをすることが民主主義か?

僕はいまだかって自民党に投票したことはないですが、だからと言って自民党が無くなればいいとは思っていません。

 石橋氏個人に対しても、防衛面では賛成しかねるところもありますが、現在の自民党の中で少数派である氏がよく頑張っていると思います。
 安倍首相と首班争いをした後、地方創生省といういわば端っこに送られても、その勤めに忠実に地方をめぐりそれぞれの意見を聞いて回ったことは評価をしています。

 安部政権では多くの金銭問題がありました。
森とも学園の問題、政治資金に関する問題、統一教会の問題などなど。

 石破氏が首相になって各党との均衡がとれ、その中で他の党も批判するだけではなく具体的な提案をし議論する現状を、民主主義のいい形になっていると考えています。

 消費税に対しても0%にと叫ぶ野党は、財源はどうするのかという提案があまりありません。その説明に責任を持つのは各党です。

大企業を優遇してきた税制を変えるのは、なかなか大変なことです。
各党の支持に直接関わりますからね。
 各議員は自分自身の保守にかかわっていては、いい政治は行えないのです。

 揶揄や批判に明け暮れた野党も、変わりつつあるし、責任を持った情報をもとに提案する党へ変わって行かなければなりません。

 様々な意見をもとに協議し合意して日本をよくしていくことこそ民主主義ですから。

2025.07.29 Tuesday

「石破やめろ」の声にメディアの危うさ

最近のニュースでは石破首相の退任か継続かが党内で議論になっているというものが多くのメディアで取り上げられている。
 私はそこにNHKや民放、各種新聞など多くのメディアの問題点を見ている。
 実際のところ、今回の選挙でなぜ自民党の当選が減ったかという詳細な分析を見たことがない。

 それなしの今の事態、特に自民党内だけではなく、他の各党を含め、自分たちの議員としての保身が背景に見て取れるように思う。
 SNSでは「やめろ」という意見数よりも「続けろ」という意見のほうが多いし、私個人は当選が減った大きな原因は、やはり安部派を中心とする金銭の問題と統一教会の問題など、関わった自民党議員への国民の不信感が大きな要因ではないかと思う。

 これらの点を含め、本当のところ何が原因かを自社で調査し分析するメディアが見つからず、単に流れてくる、いわば一つの政党だけのそれも内部の議員の伝達でしかない。
 そもそも「辞任」を要求している中に、金銭問題に明快に答えていない西村康稔議員(兵庫県選出)など安部派が多いことも問題であろう。彼ら彼女らは、もうそれらの問題はクリアされたと思っているのか、それともさらにうやむやにしようという意図があるのかわからないが。

 現在のメディアの記者たちの、報道意識には恐ろしいほどに問題意識がない。追及心や発想力のなさは、何を求めて報道関係の仕事をしたいと思ったのか。

 正しい情報を集め調査するのは、報道本来の姿ではないのか。
前にも述べた「情報の垂れ流し」や「こたつ記事」をする報道は、メディア機関の無能を意味している。

2025.07.28 Monday

算数・数学で大切なことは、イメージを持たせること(その2)

 小学校、中学校、高校を通して、算数や数学を苦手にしたり、嫌いになったりするのは、教え方の問題である。
 もちろんどの教科にも言えることだが、他の教科は数学分野と比べると、日常生活との距離が近い。
 その点で、算数数学分野は、より具体的なイメージを、教える経過の中で子供たちに持たせることが必要である。

 教員(塾の先生を含めて)は、教育方法論をかなり深く学び研究しておかねばならないが、教育学科以外では、この科目の単位も少なく、教育実習期間も2週間と短い。

 ここ数十年文科省は、大学の教育学科を減らし、教科内容も妙な改変を行っている。

 例を挙げると、小学校で鶴亀算などの代わりに、文字を使う代数(一次方程式など)を取り入れたり、電卓を導入したりしている。
つまりは、深く考えるということよりも、たやすい操作を取り入れている。

 これらはいわゆる専門家の教科審議会の意見を取り入れているのだが、これら専門家の中で実際に小学校や中学校で教えたことがある学者はどのくらいいるのか、はなはだ疑問である。

 これらのことが、ますますイメージを遠ざけていることになる。

 算数数学は、他の教科よりもはるかに小学校から高校を経て研究者の数学まで内容が連なっている。


 小学校の因数分解は、中学高校での因数分解と同じイメージである。

 詳しい説明は後に譲るが、イメージは、「ばらばらのものを四角に並べる。」である。
 並べられたら、因数分解が可能だし、並べることができなければ、因数分解はできない。

 このイメージを具体的に説明できる教員はどのくらいいるだろう。

 親の方たちはいちど学校の先生、塾の先生に聞いてみてほしい。

 
 つづく・・・・・・・・・


 

2025.07.26 Saturday

算数・数学で大切なことは、イメージを持たせること

 算数で、早い時期に学ぶ足し算の繰り上がり、繰り下がり、(具体的に言えば足し算で一つの位が合わせて十を超える問題と、引き算で一つの位で引く数がひかれる数より大きくてその一つ上の位から10を借りてくること)の苦手な子供がいます。

 なぜ苦手になったかというと、その子供たちは、数字を文字としか見ていないのです。さらに言えば教えた人が、具体的なイメージを持たせていなかったということです。

 引き算の繰り下がりの例で言うと、例えば「15−8はいくら。」という問題で、教える人がお金15円持っていて8円のものを買ったとか、箱の中にミカンがあって、8個取り出したとかの具体例をたくさん示さないで、単なる操作として、

 15は10たす5、5からは引けないので、10借りてきて8を引くと2、残している5と合わせて7

 くらいのことしか説明していない。


 お金で言えば具体的なイメージ「10円玉と1円5枚」というイメージがあります。
10円玉で8円払うとおつりが2円、使っていない5円と合わせて、手元に7円残る。

 頭の中に、10円玉や1円玉または5円玉のイメージが残ります。


 箱の中のミカンの例でいうと、また違ったイメージです。
15個あって、8個撮るのですが、あといくつとったら10個取ることになるかなを考えさせる。

 理由は数(の記法は十進法)だから、10を意識づけるためです。

 あと二個とこたえたら、箱に何個残るか感がwさせると5つという答えは、易しく見つかる。
 じゃあ15個から8個取ったら、いくつ残るのかな、と尋ねる。

 同じ繰り下がりでも、いくつかのイメージがあるのです。

イメージができたら、操作法の説明に移れば、栗さアリはできるようになります。

 3桁の引き算であれ、4桁の引き算であれ、各位でこの操作法を繰り返せばいいのですから、まずは2桁から1桁の引き算のイメージを作ることに、時間をかけることです。


 算数、数学では、子供たちに具体的なイメージを作ることが非常に重要です。

 いま、タブレットが導入され、計算などの操作はしやすく、操作のスピードも速くなっていますが、それで回答ができて理解できていると思うのは、間違いです。

 タブレット(コンピューター)を遣って効果の出る場面と、板書(黒板に書くこと)や掲示物のそれぞれの利点(特性)を理解していることが、教える人には大切なのです。

 学校の授業と塾に行っているため、かえってそれが抜け落ちていて、子供の理解が進まないということもありうるのです。





2025.07.26 Saturday

教えるための資質について

あれやこれやと思う日々(25年その7)

 ちょっと真面目な教育の話。

皆さんは、奇数と偶数という言葉とその意味を知っていますね。

もし小学生(低学年)に教えるとしたら、どのように教えますか。

 奇数(きすう、英: odd number)とは、2 で割り切れない整数である。
 偶数(ぐうすう、英: even number)とは、2 で割り切ることができる整数である。

 
 そんなところでしょうか。上はウィキペディアによるものです。
 子供たちに解るように教えるには、それだけでは不十分です。

 なぜ奇でなぜ偶なのでしょう。

 もし機会があれば、お子さんの塾の先生や学校の先生に聞いてみてください。

 子供たちに「わかるように教えているか。」は、こういうことが説明できるだけの力量を持つ必要があります。

 それこそが、「なぜ???」の大切さです。

 「なせ」を教えられない先生(塾であれ学校であれ)は、不十分な力量であるということです。そのあたりが、自分で解けることと、教えることの大きな差です。
 自分で問題が解ければ数学は教えらえると思っている教員も、英語が話せれば教えられると思っている英語の教員もいるでしょう。

 社会人でもそのように解ければ教えられると思っている人が多いのも事実です

 そういう意味で、「わが塾の先生は、名門大学の学生」などとうたっている塾には、懐疑的になりましょう。

 塾の教員に資格がいらないのは、本当は大きな問題なのです。

2025.07.19 Saturday

冤罪に対する警察・検察・メディアの責任

あれやこれやと思う日々(25年その5)

 昨日今日と冤罪の無罪判決に関する報道がありました。
 長年服役し無罪を勝ち取ったとはいえ、人生の多くを失った方々の無念さは、私の想像をはるかに超えるものでしょう。

 同時に今日のような殺人事件において、真犯人は今もどこかで生きているということもあると思います。

 被害者の人もまたその人生を奪われてしまったのです。
被害者のご家族にとっても納得のいくことではないでしょう。
 警察や検察の責任は、その方々(被害者の家族)に対してもあるのです。
 当然真犯人の追求はなされるべきなのですが、このことに関して、警察も検察も言及することがなく、あまりメディアでも問題として取り上げていないのは何故なのでしょう。
 この点では、事件当時だけではなくその後もメディアの責任はあると思います。
ただ、警察や検察の発表および裁判結果を発表するだけでは、報道機関として、責任を果たしているとは思えません。

 もちろん滋賀県の事件のように、おかしいと思い追跡調査し続けた中日新聞の記者のような報道記者がいることは、大切なことですが、そのような記者が大多数であってほしいものです。

2025.07.19 Saturday

趣味のおもしろさ・・・数独・将棋・切手収集

あれやこれやと思う日々(25年その3)

退職して15年、サモアから帰って13年、最近の日々は、野球と読書と数独と将棋と切手収集、野球に出かけないときはほとんどの時間コンピューターの前に座っていることが多い。
 何をしているかと言えば、野球チームのマネージメント県の連盟との連絡や全国大会の旅館やフライトの手配とその準備としてチームに手配をすること、チームのデーター処理やホームページの作成などなど。

 このうち特に自分にとって意味のあるのは読書よりも将棋と切手収集である。
数独は論理性の問題ではあるが、数学的にはあまり意味を持たない。(関連する"Taking Sudoku Seriously"という本も読んではいるが)。一方将棋は論理性だけではなく、相手の指し手に惑わされないことや、基本二方向から攻めると一方が弱くなり、まけにつながりやすいという「二兎を追う」ことの弱点を知らされたりと、人生にも通じることを学ぶことが多い。

 さらに切手の収集は、知識の宝庫である。日本切手はもちろんだが、アメリカ切手では、我々が通常は習わない独立戦争や南北戦争の詳細なことに出会う。

 先日の4日は、独立記念日であったが、学校で習ったのはそのことだけに近い。切手では例えばベンジャミンフランクリンは、独立にかかわっていた当時フィラデルフィアの郵便局長であったことやそもそもアメリカに人々が移住し始めたころのアメリカの原住民のことなど、切手と関連して調べて分かることがたくさんある。何年か前にディズニーの「ポカホンタス」という映画があったが、それよりもっと早く20代のころにはは彼女のことを知っていたのも切手を集めていたからで、切手をただ集めるだけでは得られない知識を獲得することができる。

 皆さんはツィオルコフシキーとヘルマン・オーベルトという人物が何者か知っていますか。
 ウェルナー・フォン・ブラウンやセルゲイ・コロリョフあたりになると知っている人も増えるでしょうね。

 世界史のなかでも政治家だけではなくいろいろな分野で著名な人々はほぼ切手になっているので、そういう人たちが何をしたかを知るのが切手収集のしていて知ることができ、それがこの趣味の楽しいところである。

 最近は切手を集めている人が少なくなっているようで、少し寂しいなと思っている今日この頃であります。

  (私は「という今日この頃であります。」が口癖だった人のファンです。)

2025.07.19 Saturday

自転車マナーに対する警察の責任と社会の責任

あれやこれやと思う日々(25年その2)

 最近、常に思うのが人々の自転車のマナーの悪さです。

野球の練習や試合に行くときには、高校生の自転車通学や人々が甲子園駅から浜の方の会社まで通勤するのに出会いますが、まずほとんどの人が、「自転車の道路交通法」を知っているように思えません。

 西宮東高校、南高校、今津高校、鳴尾高校の学生など自転車通学を許している学校が、ありきたりのルールしか指導していないと思われます。そもそも学生生徒がどのように走っているのかという実態を把握していない。
 昨今自転車のルールがメディアにも取り上げられ罰則なども報道されていますが、警察や交通安全協会や各都市の教育委員会など指導すべき立場にある機関が、今後も真剣に取り組むのか疑問です。

 というのは、数年前にも自転車通学の女子高生が、夫人に当たって死亡された事故がありましたが、その時点では各機関も指導強化をするような「それなり」のことは、報道されましたが、現状は、まるきり変わらず、「それなり」です。

 通勤に自転車を使う人々や、子供を送り迎えするお母さんたちは、そのような教育を受けていないのが、現状なのです。

 元来、自転車は、道路交通法上自動車扱いですから、歩道は走れないというのが原則ですが、社会の道路事情から、ある条件の下で歩道も走ってよいことになっていますし、一方通行の道でも。自転車は逆に走ってもよいことになっていますが、指導がいきわたっていないがために、どこをどのように走ってもよいというような現在の「惨憺たるありさま」になっているのです。

 だから親たちも「子供の見本になる」ような走り方ができない。
 いつも言いますように、自由にはそれに伴う義務があるのです。様々な面でまだまだ「自由と義務」という民主主義の原則が徹底していない、いい例だと思います。

2025.07.19 Saturday

あれやこれやと思う日々(25年その1)

あれやこれやと思う日々(25年その1)

 トランプ政権になって潜在していたことの証拠がたくさん出現した。単にトランプ個人の人間性ではなく彼の行為がそのことを明確にした。

 それは、情報社会という中でそれにかかわる開拓者の多くが、「今まで言っていたことが単なる〈表向きの理性〉であって〈本音ではない〉ということだ。」

 イーロン・マスクがツイッターを買収し、削除されていたID復活をはじめとする一連のトランプよりの行動が、その顕著なものだが、メタ(FaceBook)のザッカーバーグもトランプにおもねるように、情報の信憑性をチェックすることをやめた。引き続きアマゾンのジェフ・べソスも続き、昨日のニュースでも取り上げられたソフトバンクの孫正義も、「情報の重要性の利点を説きその信憑性を高める。」のではなく、結局は経済的な儲けが彼らの経営思想の中心であることを、はからずもトランプの出現によって露呈した。

 トランプを支援した人々が、今日の現状しか見えていないラストベルトの労働者たちに代表される人たちだけではなく、白人至上主義や、LGBTを支持しない人、女性の権利を認めない人たち、南部や中西部に多い差別主義者だけではないことが、はっきりする。

 これらの人々に共通するのは、「利己主義」である。
世界はまだまだ人権意識が乏しい。これは我々自身の問題である。広く世の中を見て、何が「人として正しいか」を見ていくことこそ、我々が人類として存在する意義であると思う。
 様々な状況や場面で、「自分は利己的な考えに陥っていないか。」を意識していたいものだ。
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